「やまなし」の抽象性と対峙することについて
宮沢賢治の「やまなし」の冒頭は、「春と修羅」と並んで個人的宮沢モーメントのトップ2を飾る名文です。そして「やまなし」という作品は、宮沢賢治の童話作品の中でも、かなり詩的な部類に入るものではないかと考えています。 同様に短めのお話は多くありますが、それぞれがエンターテインメントによっていたり、また起承転結がはっきりした短編も多く、ここまで散文的に物語性の薄い(と言っていいのかどうかはさておき)ものはそこまでないんじゃないかなあ、と思ったり。 宮沢賢治は僕の知る限り、かなりかなり思想の強い部類の作家であると思います。彼の自然との関わり方やそれに向けた想いの裏側に、彼個人のやりきれない情念や死生観、宗教観がそれぞれに見え隠れする作品が多い中で「やまなし」という作品はその匂いが限りなく薄い。うっすらと、まさに「二枚の青い幻灯」であるのみであって、そこには彼の主観的な主張が可能な限り排除された情景を映したスクリーンがあるだけのように感じられます。 だからこそ、というべきか、どうなのか、これ小学生には難しくね?と思ってるんですが、どうなんでしょうかね。シンプルに描写の綺麗なお話ではあるんですが、ここまで抽象的なものになってくると、かえってそこから具体的な何かを読み取ろうとするのはキツくないかなあ、と。あとかなり野暮な取り組みですよね。詩として味わってもらうのが一番いいんじゃないかなあ、と思うのですが、どうなんでしょうね。 大好きな作品ではあるので、生徒に説明するときはウキウキで楽しくなってしまうんですが、だからこそネットにある小学校の授業計画や授業案などを見ていても、この作品からこれかあ・・・と思ってしまって、寂しい気持ちになったりします。もっと詩そのものの味わい方や、楽しみ方を伝えたいなあ、と思ったのでありました。