教師という仕事に人間性を排除した人格はあり得るのか?というお話
元々は、自分自身の「作家性」について考えたところから。僕はアート教室の先生としても仕事を始めていて、その上で、にわかイラストレーター的に試作品を作ったり、こっそり発表したりしているわけなんです。その上で、自分に合った作風というか、好きこそものの何とやら、自分が色々なものを描くうえで、「ああ、これが一番上手に描けるなあ」というものがこの年になって見えてくるんですね。
表現というものの特性上、それは僕のこれまでの人生や、培った考え方と切り離すことはできなくて。その上で一連の作品を作っていったとき、それは作家性とでもいうべき共通な何かを持つことになるわけです。
それと同様に、というのは大袈裟かもしれませんが、僕が家庭教師として生徒や保護者と向き合うときに、僕という人間性は隠すことができません。もちろん、何でも丸出しにはしませんが、同時に全てを隠すことなんて、できないよな、と思います。
そしてそれは、学校の先生という立場であったらどうだろう、と思ったのです。
あくまでもシステムの上で、という話ですが。学校の先生には、どこまでその、個人としての人間性を、その作家性を表に出すことが許されているのでしょうか。それは個人差であり、その教師が育った環境に大きく左右され、またその生徒たちの成長にも多かれ少なかれ関与するでしょう。それは、どうなんですかね?
塾講師や家庭教師は、あくまでも成績の向上という具体的なゴールへ向かって進みます。そこにはセオリーの差はあれど、明確な評価基準の下にある以上、過程を評価されることはあまり無いようにも思えます。対して公共教育の場で設定されるゴールというのは、抽象的であり、明確な評価の難しいものであるように僕の目には映ります。そのゴールに対する齟齬が、行政から保護者に至るまでの各段階で細かな食い違いや、やりづらさを生んでいるのだと思います。
そもそも、システムの上で、学校の先生という人格には個人としての人間性は許されているのでしょうか。もし許されているとすれば、それに対して生徒や保護者が好き嫌いを述べることには全く問題がないはずだよなあ、と思ったり。そしてもちろんタイトルにもある通り、人間性を、個人の作家性を完全に排除した職業人格などが存在するのだろうか、と思ったり。何となく、ツイッターなんかを見る限り、上記の二派が存在するような気もしたり。
本当に、日本における公教育というのは、外からの見方も、中からの在り方も、色々なところが変化を求められているように思っています。あくまでも主役は子供たち。彼らのためにもっともっと、考えることは多いなあ、と思う限りです。中途半端ですが、今回はこの辺で。
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