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「やまなし」の抽象性と対峙することについて

  宮沢賢治の「やまなし」の冒頭は、「春と修羅」と並んで個人的宮沢モーメントのトップ2を飾る名文です。そして「やまなし」という作品は、宮沢賢治の童話作品の中でも、かなり詩的な部類に入るものではないかと考えています。  同様に短めのお話は多くありますが、それぞれがエンターテインメントによっていたり、また起承転結がはっきりした短編も多く、ここまで散文的に物語性の薄い(と言っていいのかどうかはさておき)ものはそこまでないんじゃないかなあ、と思ったり。  宮沢賢治は僕の知る限り、かなりかなり思想の強い部類の作家であると思います。彼の自然との関わり方やそれに向けた想いの裏側に、彼個人のやりきれない情念や死生観、宗教観がそれぞれに見え隠れする作品が多い中で「やまなし」という作品はその匂いが限りなく薄い。うっすらと、まさに「二枚の青い幻灯」であるのみであって、そこには彼の主観的な主張が可能な限り排除された情景を映したスクリーンがあるだけのように感じられます。  だからこそ、というべきか、どうなのか、これ小学生には難しくね?と思ってるんですが、どうなんでしょうかね。シンプルに描写の綺麗なお話ではあるんですが、ここまで抽象的なものになってくると、かえってそこから具体的な何かを読み取ろうとするのはキツくないかなあ、と。あとかなり野暮な取り組みですよね。詩として味わってもらうのが一番いいんじゃないかなあ、と思うのですが、どうなんでしょうね。  大好きな作品ではあるので、生徒に説明するときはウキウキで楽しくなってしまうんですが、だからこそネットにある小学校の授業計画や授業案などを見ていても、この作品からこれかあ・・・と思ってしまって、寂しい気持ちになったりします。もっと詩そのものの味わい方や、楽しみ方を伝えたいなあ、と思ったのでありました。

教師という仕事に人間性を排除した人格はあり得るのか?というお話

 元々は、自分自身の「作家性」について考えたところから。僕はアート教室の先生としても仕事を始めていて、その上で、にわかイラストレーター的に試作品を作ったり、こっそり発表したりしているわけなんです。その上で、自分に合った作風というか、好きこそものの何とやら、自分が色々なものを描くうえで、「ああ、これが一番上手に描けるなあ」というものがこの年になって見えてくるんですね。  表現というものの特性上、それは僕のこれまでの人生や、培った考え方と切り離すことはできなくて。その上で一連の作品を作っていったとき、それは作家性とでもいうべき共通な何かを持つことになるわけです。  それと同様に、というのは大袈裟かもしれませんが、僕が家庭教師として生徒や保護者と向き合うときに、僕という人間性は隠すことができません。もちろん、何でも丸出しにはしませんが、同時に全てを隠すことなんて、できないよな、と思います。  そしてそれは、学校の先生という立場であったらどうだろう、と思ったのです。  あくまでもシステムの上で、という話ですが。学校の先生には、どこまでその、個人としての人間性を、その作家性を表に出すことが許されているのでしょうか。それは個人差であり、その教師が育った環境に大きく左右され、またその生徒たちの成長にも多かれ少なかれ関与するでしょう。それは、どうなんですかね?  塾講師や家庭教師は、あくまでも成績の向上という具体的なゴールへ向かって進みます。そこにはセオリーの差はあれど、明確な評価基準の下にある以上、過程を評価されることはあまり無いようにも思えます。対して公共教育の場で設定されるゴールというのは、抽象的であり、明確な評価の難しいものであるように僕の目には映ります。そのゴールに対する齟齬が、行政から保護者に至るまでの各段階で細かな食い違いや、やりづらさを生んでいるのだと思います。    そもそも、システムの上で、学校の先生という人格には個人としての人間性は許されているのでしょうか。もし許されているとすれば、それに対して生徒や保護者が好き嫌いを述べることには全く問題がないはずだよなあ、と思ったり。そしてもちろんタイトルにもある通り、人間性を、個人の作家性を完全に排除した職業人格などが存在するのだろうか、と思ったり。何となく、ツイッターなんかを見る限り、上記の二派が存在するような気もした...